第7回
嚥下食の話
食べやすく美味しい嚥下食で、
健康づくりと生きる喜びを
金谷栄養研究所 所長
金谷節子 先生
「懐かしい味」や「憧れの食事」で、嚥下食に食べる喜びを
摂食・嚥下障がいの方への食事作りで心がけるポイントは?
食べたいという気持ちに応えることが大切なんですね
金谷先生
その方が何を食べたいのかを考える上で大切なのが、記憶に残っている食事を再現することです。特に認知症の患者さんは子供に戻るといわれますが、幼い日にお母さんが作ってくれた食事が脳に刻まれていますので、その味を再現することで喜ばれる食事が作れるのではないかと思います。一方で、憧れの味を提供することも喜ばれる嚥下食の大切な要素だと思います。
「憧れの味」とは具体的にどのようなものでしょうか?
金谷先生
日本のお年寄り世代にとっては、子供の頃フランス料理に憧れた方が多いのではないでしょうか。そんな憧れの食事、いわばファンタスティックな要素を盛り込んだフランス料理の嚥下食を、美しい盛り付けで提供することも、患者さんの食べる喜びを引き出してくれるでしょう。
そもそも嚥下食のルーツはフレンチにあると私は思っています。というのも、フランス料理のムースもフォアグラも、咀嚼せずに飲み込める、まさに嚥下食の条件を備えています。こういった料理がなぜ誕生したかといえば、16世紀に始まるルイ王朝の頃は美人といえばもっぱら小顔でウエストの細い女性が基準でした。小顔を作るためには顎を大きくしてはいけない。そこで、咀嚼しないですみ、かつ栄養に優れた美味しい料理が様々に開発されたのです。聖隷三方原病院では、一流ホテルで修行したフレンチの料理人が嚥下食の開発にあたっていたことがありますが、その時作られた嚥下食の美味しさは、関わったスタッフみんなが今も憶えています。嚥下食は一般の人が食べても美味しいし、そしてルイ王朝のお姫様とも繋がっている。そういうものであれば食べる方に希望を与えられるのではないでしょうか。
トレハロースの活用や新しい調理法で
さらに進歩した嚥下食
嚥下食はどのように進歩してきましたか?
金谷先生
嚥下食に取り組んでいる人にとって、トレハロースの登場による進歩は大きかったと思います。私自身、嚥下食に関わって25年以上経ってからトレハロースを知り、非常に驚きました。その優れた点は第一に保水性だと感じています。嚥下食には口腔内粘膜や食道をスムーズに通過させるためにしっとり感が大切ですが、トレハロースを用いることで食品の水分を保つことができ、料理にしっとり感が生まれるのです。また、病院給食では様々な食品の臭いが混ざり、特に臭いに敏感ながん患者さんなどはそれが原因で食欲をなくしてしまうこともあります。この点でもトレハロースは嫌な臭いを抑える働きがあり、私自身も実体験でその作用を実感しました。さらに、食品の鮮やかな色合いを保つので、見栄えからも食欲を引き出す嚥下食作りに役立ちます。
トレハロースによって、より食べやすい嚥下食が可能になったのですね
金谷先生
そうですね。さらに作る側にとってもトレハロースを使用するメリットは大きいのです。それは冷凍耐性に優れているので、保存がしやすくなったという点です。嚥下食を毎日作るのは大変ですから、まとめて作ってストックしておき必要に応じて使うとよいのですが、ゼラチンを使ったものなど冷凍によるダメージが大きく長期保存に向きません。しかしトレハロースを加えると劣化が抑えられ、解凍時にも作った時の状態に近い食感や色を保っていますので、ストックがしやすくなり嚥下食作りの負担を軽くできるようになりました。
コラム 2ご存知ですか?「トレハロース」
トレハロースはもともと自然界に存在する糖で、太古の昔から生命と関わっていることがわかっています。クマムシ、ワムシなどの微小動物やイワヒバなどの植物が砂漠などの厳しい環境の中で生き続けられるのは、トレハロースが生体内に存在するためであるといわれています。キノコ類や海藻などふだん食べている身近な食品にも含まれている物質であり、同じ糖質の砂糖と比較するとカロリーはほぼ同じで甘さは半分以下という特徴があります。以前は自然のものを抽出していたため高価でしたが、1994年に株式会社林原(現ナガセヴィータ)がでん粉からトレハロースを製造する技術を開発し、大量生産が可能になったことで様々な食品への利用が進んでいます。
トレハロースの最大の特徴はご飯やパン、ケーキなどの柔らかさを保つ働き「でん粉の老化抑制」です。さらに金谷先生も実感されている保水性や食材の変色抑制、卵や肉・魚のパサつきの抑制など、嚥下食を含めて広く料理づくりのメリットとなる特徴を備えています。
他に最近の嚥下食に変化はありますか?
金谷先生
調理機器の進歩によって新しい調理法が普及してきましたが、特に嚥下食にメリットの多い「真空低温調理」の活用が進んでいます。この調理法は食材をフィルム(ポリ袋)に入れて真空密閉し、温度管理のできる機器を用いて湯煎などで加熱するものです。温度と時間を厳密に管理できるため、食材に応じて美味しさ、物性(柔らかさ等)をいつも同じように再現できます。低温調理で素材の水分を逃さないため柔らかく仕上げられ、ビタミンなどの栄養素の破壊や流出も少なく、食材に直接触れないため衛生的と、嚥下食にはうってつけの調理法だと思います。調理後は冷蔵で最長6日、冷凍で1か月ほど保存できますので、効率よく嚥下食作りができます。現在、嚥下食作りに積極的な多くの施設で導入が進んでいます。
負担を小さくする工夫で、
無理なく、美味しく嚥下食作りを
では最後に一般の人が嚥下食作りに取り組む際のアドバイスをいただけますか?
金谷先生
嚥下食作りは手間がかかるものです。料理というものはイライラしている時には絶対にうまくいきませんから、なるべく負荷をかけない方法をとることが続けていくポイントだと思います。まず肝心なのは毎食作るのではなくまとめて作って冷蔵や冷凍でストックし、必要に応じて使っていくこと。在宅で嚥下食作りに成功されている方に秘訣を聞くと、必ずその方法をとっていると言われます。また、最近は嚥下食用に魚や野菜をゲル状にしたものなど、一次加工食材も商品化されていますので、そういったものをうまく活用するのもお薦めです。ただし、レトルト臭が強いと風味を損ないますので、食材選びには気をつけたいものです。
好きなものを口から食べられることは生きるための大きな力を与えてくれます。日本の嚥下食は世界の中で最も進化していると思いますので、今後は在宅で介護されている方にも美味しく機能性に優れた嚥下食が簡単に手に入るようになっていくと良いですね。
嚥下食の世界がさらに充実していくことが期待されます。
本日は貴重なお話をありがとうございました。
取材日:2019.6.21
金谷節子 先生
金谷栄養研究所 所長
略歴
- 1972年
- 聖隷(せいれい)三方原病院栄養科勤務。
- 1979年~2003年
- 聖隷三方原病院 栄養科長
- 2004年
- 聖隷佐倉市民病院 栄養科長
- 2005年
- 浜松大学 健康栄養学科 准教授
- 2006年~2009年
- (財)日本オリンピック委員会強化スタッフ(医•科学スタッフ)
全日本女子バレーボールチーム栄養サポート - 2010~2013年3月
- 浜松大学 健康栄養学科 教授
- 2013年4月~
- 金谷栄養研究所(有)所長
所属学会
- 日本抗加齢医学会評議員、日本病態栄養学会、日本リハビリテーション学会 他
受賞
- 2008年
- 「第 8 回日本抗加齢医学会奨励賞」
- 2010年
- 「第 10 回日本抗加齢医学会優秀演題賞」
- 2010年
- 「平成 22 年度 O-CHA パイオニア賞受賞」
- 2014年
- 「一般社団法人 日本病態栄養学会 功労賞」
主な著書
- 金谷編著「嚥下食のすべて」医歯薬出版2006
- 金谷lab「介護食・嚥下調整食レシピ調理ガイドブック」金谷ラボ2014
- 大熊、金谷編著「キーワードでわかる臨床栄養改訂版」羊土社2011
- 聖隷三方原病院 嚥下チーム「嚥下障害ポケットマニュアル2版」医歯薬出版2001
- 聖隷三方原病院 コア栄養管理チーム「SEIREI栄養ケアマネジメントポケットマニュアル」2001
出典:嚥下食ドットコム
金谷先生
私たちが取り組んできた嚥下食開発は、常に患者さんが先生でした。一人ひとりの情報をキャッチし、この方は何が食べられるのか、食べたいのか、嫌いなものは何かといった情報を把握して、それを食事に反映させる姿勢が大切です。例えばお刺身の好きな患者さんがいらっしゃいました。しかし、その方の嚥下障がいの程度が大きく、食べられそうもないと考えられました。それでも本人のご希望に応えてネギトロにわさびを付けてお出ししたところ大変に喜ばれて召し上がることができました。驚きましたが、本当に好きなものだから口の中に唾液がたくさん出て、飲み込めたということなのです。不可能と思われる食事でも患者さんの食べたいという思いがそれを可能にした例は多くあります。思いに応えることを患者さんに教えられて嚥下食は進歩してきたと実感しています。